87<映画「いのちを食べる」を見て>
普段、スーパーで牛肉や豚、鶏肉などを買う時それがもともと生きていた動物であるという事を意識した事はあるだろうか?ハンバーガーや焼肉を食べる時も同様に生きた牛や豚を想像した事があるだろうか?答えは殆ど否であろう。
牛や豚、鶏などは人間の身近な生き物として親しみを持って接して来たと同時に彼等?が身を持って食材として自らを供することで人間の食生活は成り立って来た。彼等はまさに生き物である。人間は同類はもとより犬、猫を始め牛豚などの家畜類に至るまでその死に遭遇すると嘆き悲しむ憐憫の情を持った生物である。しかし現実の姿形のない店頭の肉類に彼等の生態(いきざま)を想像する事は殆ど不可能である。
この「いのちを食べる」という映画はその原点を気づかせてくれる不思議な映画であった。生きた牛や豚が賭場に送られ彼等の意志?に反して屠殺され切り裂かれて食肉となっていく様を機械的に淡々と映し出していた。説明も音楽も何もない。ただ、事実をありのままに伝えようという意図だけが伝わって来る。そこにはキリスト教も仏教も関係なくただ「食」という現実だけが語られている。「いのち」あるもの、それは牛や豚に限らず魚も野菜も果物も然り。人間の「食」を満たすために如何に効率良く生産、収穫するかが全てである。ただこの映画は人間は他の「いのち」を戴かなければ生きて行けない生物である事、だからこそ「いのち」の貴さをあらためて考えよという事が一番言いたかったのかも知れない。
日本人が食事をする時に言う「いただきます」は他の生き物のいのちを「いただく」事だとあらためて思い知った映画であった。
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数多なる「いのち」食して永らへる人間とふは罪深きもの
屠殺場に送られ行きし牛の眼を哀しと思ふは矛盾と言ふか
人間(ひと)のため「いのち」断つると知らいでか眼の暗き牛屠場に送らる
体毛を剃られし牛の眼ぞ赤し高圧一瞬崩れ落ちたり
内蔵を取り出だす為下腹を抉ればどっと血の溢れ落つ
牛巨体吊り下げられて流れ行き電ノコをもて真二つとなる
てきぱきと包丁持ちて切り分ける欧州美人は仕事師の顔
横腹を切り裂き帝王切開す牛立ちしままびくともせざり
生産のために精子を抜き取らる喜悦寸前の牛哀れかな
長閑(のどか)なる牧歌風景懐かしや牛は機械(マシーン)に乳搾ぼられて
丸々と肥え太りたる豚の群れ生きたるままに吊り下げ行きし
牛豚も切り裂かれ行き肉塊となれば「いのち」の慈しみ消ゆ
残酷と言ふは当たらず畜肉は生産され来し食材なれば
コンベアで黄色き河の如くある幼鶏(ひよこ)等育ちて食材となる
無造作に雛鶏むんずと掴み取り間引かる鶏は投げ捨てられつ
両側の5段余りの鶏棚(とりだな)は何十メートルずらりと続く
産卵のために生かされ餌を食める鶏らは陽の目見ることはなし
人間の食材なりしブロイラー万羽単位で飼育されおり
鶏冠(とさか)など切り落とされて流れ行く姿はもはやローストチキン
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店頭で肉買ふことはいのち買うことと思はば敬虔(けい)ならざるや
魚とていのち食すにあるものの身近き故に牛豚思ふ
さりながら夕餉の膳にステーキが在らば一瞬「いのち」忘るる
「いただきます」はいのちを頂くこと故に改め思ういのちの重さ
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※写真はすべて同映画の開設Webから借用したものです。
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